2022.8.15 / 93歳Nさん(女性) 小さな漁村での戦時下の暮らし

8月15日

毎年この時期になると、原爆の被害にあった人や戦場へ行った人、大規模な空襲の被害にあった地域の方の証言を聞く機会が多くなります。

しかし、戦時中は空襲の被害もほとんどなかった小さな田舎の村でも、戦争の空気に支配されていました。

 

今年で93歳になるNさん(女性)は山口県の海辺の小さな村の出身。

戦争が始まったのはNさんが12歳・高等科1年生(今の中学1年)の時でした。終戦は16歳・青年学校3年生の時。

この間、教科書を開いて勉強をするようなことは全くなかったといいます。

「あの頃の事(勉強)は一つも分からんのいね」と寂しそうに教えてくれました。

 

農業を営む家が多い田舎ではただでさえ人手が必要でしたが、戦時中男性は徴兵などにとられ、村にはほとんど働き手がおらず、学生たちが授業の時間を使って農作業などを行っていたそうです。しかし米を収穫しても「供出」(国の要請により物資を差し出すこと)しなければならず、自分たちの手元に残る量は限られていたといいます。

「あぁ情けない世の中じゃったね。金物でも鉄でも、何でも供出、供出って出さしてね、

 それもとうとうしまいには野積みにしてね、戦場へ行きやせんのよ。

 終戦になったら、まぁあちこちそのまま盛り上げて放ったまんま。ああゆう時代はねぇ。。

 国民は騙されてね、上が言うことをね。ありゃあ、情けない時代じゃったよ。」

 

終戦の年には神奈川の飛行場で整備兵として働いていた5歳上のお兄さんが亡くなりました。

若い頃から軍需工場などに働きに出ていた勤勉で優しかったお兄さんとの思い出はそれほど多くはないそうですが、今でも1つNさんの心に引っかかっていることがあります。

戦時中は、兵隊などに行く人を「家の表口(仏間のある縁側)から出したら死ぬ」という言い伝えがあったそう。これは表口は棺桶を出棺する際に出すところであるため、生きて無事に帰ってきてほしいという願いのこもった言い伝えであったと考えられます。

しかし、なぜかお兄さんが神奈川へ行く際に表口に履き物がまわされており、そこから出ていってしまったとのこと。

後からその気づき、家族で話したのを覚えているといいます。

今でも「もしあの時お兄さんが表口から出なかったら…」と思うことがあるそうです。

 

93歳になる今でも何か気になったことはすぐ調べ、夜遅くまで本を読むこともあるNさん。

もし戦争がない10代の学生時代に戻れるなら、きちんと勉強をしたいと遠くを見つめながら語ってくれました。

 

しかし最近はウクライナなどのニュースなどを見て不安に思うことも増えたといいます。

「そりゃ哀れなもんじゃったよ、あの頃は。日本も今、戦争をするかも分からんが、またあねんなるでと思ってね。」

 

Nさんの青春時代とお兄さんの命を奪った「戦争」は、戦後77年経った今でもNさんの心に留まり続けています。

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